NO.41「と」のつく元気になった邦画「敦煌」
<元気コメント>
場所も時代も気が遠くなるような壮大なスケールの中で、砂の中に埋もれた首飾りや古文書が、数々の古のロマンを語ってくれると思うと、もうそれだけで気持ちが豊かになります。
<あらすじ>
11世紀の宗。
科挙の試験に落ちた趙行徳は、街で西夏の女を助けた礼として、西夏への通行証をもらった。
西夏の文字に興味をもった趙は西域へと旅立つ。
灼熱の砂漠を尉遅光の隊商と共に歩いていたが、途中で西夏軍漢人部隊の兵士狩りに会い、無理矢理入れられてしまう・・・(goo映画案内より)
<データ>
「敦煌」
製作:1988年 東宝
監督:佐藤純彌 サトウジュンヤ
原作:井上靖
出演:西田敏行 ニシダトシユキ (朱王礼)
佐藤浩市 サトウコウイチ (趙行徳)
中川安奈 ナカガワアンナ (ツルピア)
原田大二郎 ハラダダイジロウ (尉遅光)
三田佳子 ミタヨシコ (西夏の女)
柄本明 エモトアキラ (呂志敏)
田村高廣 タムラタカヒロ (曹延恵)
渡瀬恒彦 ワタセツネヒコ (李元昊)
大滝秀治 オオタキヒデジ (ナレーター)
・ 戦乱の世、11世紀のシルクロードで、敦煌の文化遺産を守ろうとした青年の活躍を描く。
井上靖原作の同名小説の映画化で、脚本は「必殺! ブラウン館の怪物たち」の吉田剛と「植村直己物語」の佐藤純彌が共同で執筆。
監督は同作の佐藤、撮影は「春の鐘」の椎塚彰がそれぞれ担当
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「敦煌」
著:井上 靖 新潮文庫
(「井上 靖」についてはNO.10「おろしや国酔夢譚」参照)
↓「敦煌」映画原作小説
参考:敦煌
敦煌(とんこう、ピンイン:D?nhuangトゥンホワン)市(-し)は中国甘粛省北西部の都市。
かつてシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市。
近隣にある莫高窟とそこから出た敦煌文献で有名である。
歴史的な敦煌は現在の敦煌市と安西県を合わせた領域にほぼ重なる。
(敦煌の名前)
後漢の学者応劭によると「大にして盛ん」と言う事だが、実際には紀元前からこの地を支配していた月氏の言葉の音訳であるようだ。
紀元前2世紀前半に匈奴に冒頓単于が立ち、月氏を攻めてこの地は匈奴の支配下に入る。
冒頓の時代には匈奴に押され気味であった前漢だったが、武帝が即位して、西域に対して積極的に遠征を行い、この地に敦煌郡を設置した。
敦煌郡の設置年代についてはかっては紀元前111年と言われていたが、紀元前92年ごろの李広利将軍の大宛(フェルガナ)遠征の際に設置されたとする説が有力となっている。
(漢代)
その後、甘粛を漢が制圧すると敦煌の西に防御拠点の玉門関と陽関が設置され、漢の西域経営の中心地となり、西方からの汗血馬・ブドウ・ゴマなどの産物や仏教がこの地を通って漢に運ばれ、漢からは絹が西方へと運ばれた。漢にとっての経済・軍事に於ける重要な拠点となり、豊かな土地と防衛拠点としての使命から厳しい政治を避けると言う事があり、税も物価も安く、住民は平和と豊かさを楽しんでいた。この頃の人口が3万8千ほどと言う記録があり、現在の3分の1ほどだが、中国の全人口が現在の20分の1以下(注:現在の中華人民共和国の領土は前漢よりかなり広い)の6千万ほどであるからこの頃の敦煌がいかに栄えていたかがわかる。
ただしこの地の住民は漢政府により送り込まれた窮迫農民や犯罪者であった。
そして敦煌の住民が漢の中心地へと帰ることは禁じられていた。
(魏晋南北朝時代)
その後の魏晋南北朝時代には中央から自立した西涼がこの地に首都を置いた。
これ以後は沙州(現在の敦煌市)・瓜州(現在の安西市)と呼ばれる。
西涼は北魏によって滅ぼされ、北魏に於いても西域に対する拠点として重要さは変わらなかった。
魏晋南北朝時代は仏教が中国に布教した時代でもあり、この地では竺法護などの僧が西方よりやってくる経典の訳に励み、布教に大きく貢献した。
また366年から僧楽?によって莫高窟の掘削が始まっている。
(唐代)
唐代にも引き続き、西域への玄関口として重要であった。
五胡十六国時代から敦煌は張氏・索氏・令狐氏・范氏・宋氏と言う五家の名族によって実質的に支配されており、名族社会を形成していた。
しかし安史の乱により唐政府の統制力が弱まり、この地は781年に吐蕃の侵攻を受けて、以後はその支配下に入った。
その後の70年は吐蕃の支配が続くが、唐と対立している吐蕃の支配下では交易が行われず、経済の動脈を絶たれた敦煌は一気に衰退した。
その後、漢人の張義潮が吐蕃に反乱を起こしてこの地に独立し、唐に帰順して帰義軍節度使とされた。
この頃には唐政府の権威は更に衰えており、実質的には独立勢力である。
張義潮勢力の元で交易は再開されたが、かつての盛況振りからすれば比べ物にならないほど衰えていた。
(北栄代)
北宋代に入り、タングートが力をつけて西夏を建てて、この地を占領した。
敦煌文書が莫高窟の耳窟の中に放り込まれ、入口を塗り込められたのはこの時代と考えられている。
(元代)
その後に西夏をモンゴル帝国が滅ぼし、引き続いて元の支配下に入る。
しかしこの頃になると中国と西方を結ぶルートがシルクロードから南方の海の道へと移行し始め、この地の価値は下落し、寂れた町へとなっていく。
(1900年代)
その後、長らく忘れ去られた町となり、莫高窟も見向きもされていなかった。
しかし1900年、この地にいた道士・王円?(おうえんろく、?は草冠に録)が偶然に莫高窟中の第16窟の壁の中に隠されていた耳窟(第17窟, 後に「蔵経洞」と命名)から大量の文献を発見した。
王円?も王円?から報告を受けたこの地の地方官もこの文書の価値に無知だったので、この文書はしばらくの間は放置された。
1907年にその噂を聞きつけてやって来たイギリスのオーレル・スタインが王円?から数千点の文書・絵画を買い込んでイギリスへと持ち帰った。翌年にフランスのポール・ペリオが同じようにフランスへ持ち帰った。
これを見た清政府は大慌てで敦煌文書を北京へと持ち帰るが、まだ残されていた文書を日本の大谷探検隊(西本願寺の大谷光瑞によって派遣された)・アメリカ・ロシアの探検隊が前二者に比べれば少量であるが、持ち帰った。
莫高窟も中華人民共和国が成立すると保護を受けられるようになり、1987年に世界遺産に登録され、観光名所として栄えている。
(敦煌文献(とんこうぶんけん))
1900年、莫高窟の第16窟の中にいた道士・王円?が崩れ落ちた壁の中に四畳半ほどの空間があることを発見し、その中に封じられていた大量の経典・写本・文献を発見した。
発見に至る経緯については王円?の証言にも食い違いがあり、はっきりしない。
ところが王円?は字が読めなかった。取り扱いに困った王円?はこのことを地方官に報告したが、適当に処理しておけと言うだけで見向きもしなかった。
この空間は後に第17窟と番号付けされ、「蔵経窟」「宝庫」などと呼ばれることになる。
(敦煌文献の価値)
当時価値がないと考えられたものが何故現代では大騒ぎされているのだろうか?
まず一つ目がその量である。
総数で3万とも4万とも言われるその数は各分野にわたって資料を提供している。
二つ目がその年代である。
中国に於ける印刷術は五代十国時代から北宋代に飛躍的に進歩した。
また、印刷時代に入った後も、正倉院の写経に代表されるような古い時代の文物を保存する意識を持ち続ける日本とは異なり、中国では刊本が普及すると、旧来の写本を保存しようという意識は生まれず、やがて忘れられてしまった。
それ故に唐代以前の写本は版本に取って代わられ、清代になるとほとんど存在しなくなっていた。
敦煌文献の中にはこうやって遺失した書物・文書が大量に存在しており、敦煌の中から復活した書物は少なくない。
三つ目がそのバラエティである。
文献の大半は漢語で書かれており、内容は仏典である。
しかし他にチベット語・サンスクリット語・コータン語・クチャ語・ソグド語・西夏語・ウイグル語・モンゴル語などがあり、内容もゾロアスター教・マニ教・景教(ネストリウス派)などの経典、唐代の講唱の実態を示す変文、あるいは売買契約書や寺子屋の教科書などの日常的な文書も残っており、失われた言語・宗教をこの文献より一部復活させたり、当時の民俗・政治の実態を知る上で非常に貴重である。
四つ目にその無価値さゆえである。
無価値と判断したものを苦労して保存しようとする者はまずいない。
であるからそのような物が現存する可能性はそれこそ奇跡に近い。
その奇跡の成果である唐代の土地台帳などから均田制など唐代に行われていたとされる諸制度が実際にどのように運営されていたかの研究が進められている。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
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◆◆この映画をご覧になった方は感想をお寄せ下さい↓NO.40「天使にラブ・ソングを」をご覧になってお寄せ頂いたお便りです
【7/2(日)この作品を見たら】
すぐにカラオケボックスへいきたくなって、突然友達を呼び出して・・・。
友達もポカンとして、事情を話したら大笑い。
でも、やっぱしミュージカル映画をみてカラオケに行きたくなったことがあったって。(笑い)(東京 石井)
☆☆東京の石井さん、お便りありがとうございました。
映画を見てその気になるというのは結構あるみたいですね。
いったいどんな歌を歌われたことでしょう。
またのお便りをお待ちしております。 (映画で元気)
【7/4(火)「2」の方がお勧めかしら?】
今回初めて「1」と「2」を一緒に見ました。
私は「2」の方が楽しくて好きです。(滋賀 中村)

☆☆滋賀の中村さん、お便りありがとうございました。
第2作目も第1作目以上に笑いと感動が同居していましたね。
またのお便りをお待ちしております。 (映画で元気)
◇◇貴方のご覧になった他の<元気の出た映画・ドラマ>をご紹介して下さい
↓オススメ映画をお寄せ頂いたお便りです
【博多 赤井さんのオススメ「鉄道員」】
最近はこう書くとつい高倉健さん主演の「ぽっぽや」と間違えられそうですが、やっぱり私はピエトロ・ジェルミの「鉄道員」(てつどういん)です。
がんこ親父の姿が自分の生前の父と重なりあってなんとも言えません。(博多 赤井)
☆☆博多の赤井さん、お便りありがとうございました。
お父様と多くの思い出がおありのようですね。
貴方もきっとサンドロ少年のような存在だったのではないでしょうか。
またのお便りをお待ちしております。(映画で元気)
<データ>
「鉄道員」(テツドウイン)
製作:1956年 イタリア イタリフィルム=NCC配給
監督:Pietro Germi ピエトロ・ジェルミ
出演:Pietro Germi ピエトロ・ジェルミ (Andrea)
Luisa Della Noce ルイザ・デラ・ノーチェ (Sara)
Edoardo Nevola エドアルド・ネヴォラ (Sandro)
Silva Koshina シルヴァ・コシナ (Giulia)
Carlo Giuffre カルロ・ジュフレ (Renato)
・「越境者」「街は自衛する」のピエトロ・ジェルミ監督が、自から主人公としても出演して一九五六年に監督した、労働者の一家庭を描くネオ・リアリズム作品。
アルフレード・ジャンネッティの原案にもとづき、ジェルミとジャンネッティ、ルチアーノ・ヴィンセンツォーニの三人がシナリオを書き、エンニオ・デ・コンチーニとカルロ・ミュッソがこれを修正加筆した。
撮影は「越境者」のレオニダ・バルボーニ。
音楽は同じく「越境者」のカルロ・ルスティケリ。
ジェルミの他に「大遠征軍」「芽ばえ」のシルヴァ・コシナ、ファッション・モデル出身でこの作品によりサン・セバスチャン映画祭で女優賞を受けたルイザ・デラ・ノーチェ、ジェルミに見出されたエドアルド・ネヴォラ少年、カルロ・ジュフレ等が出演する。
製作カルロ・ポンティ。
なおこの作品は他にサンフランシスコ映画祭の男優賞(ジェルミ)、コーク映画祭監督賞などを受賞している。
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